奈良時代を牛耳った藤家を色彩る花は「藤」である。藤は2つの顔を持つ。艶やかな紫の花は可憐であり、一方で、重い物を曳くときに使われる「藤縄」の材料にもなるほどその蔦は強い。
藤家はその二面性をフルに活用しながら、鎌足―不比等の卓絶した政治豪腕によって創始されたのである。その三代目正嫡として藤三娘はこの世に生を享けたのであった。長じて皇太子妃となり皇后に冊立されようとする頃から、ようやくこの国の頂点に立つ自分を自覚してゆくのだが、この自覚と相俟って信念を堅持することによって、権謀術数の世界の波に翻弄されながらも、自分を失うことはなかった。
かつて元明女帝の側近として隠然たる権力を振るった母・三千代に、娘の藤三娘は超えることの出来ない大きいものを感じてきた。しかし、三千代の実力は元明あってのものであり、それに夫・不比等に擁護されてこそのものであった。
その不比等に先たたれ、次いで元明崩御に遭うと、三千代は両人を追善供養するため菩提の道に入っていった。その対象が橘夫人厨子(法隆寺蔵)といわれる阿弥陀仏を安置した厨子の中の小さな世界であった。
藤三娘はそうした母の姿を時に批判的な目で眺めることがあった。ところが、いったん政事の世界が大きく動きだすと、母・三千代はかっての権謀術数にたけた女御(にょうご)に豹変した。この強烈な二面性はまるで藤の花のそれであり、思わず畏敬の念に襲われる。と同時に、それまでは何とも思わなかった厨子の中の阿弥陀の世界が強烈に心を打つのであった。
本尊の阿弥陀像(34センチ)は蓮の茎の上に開く蓮華に安置され、阿弥陀浄土の風景がみごとに表現されていた。花姿自体が仏陀の国・天竺そのものを思わせる世界だ。
時代が奈良から平安に移り、親鸞が登場すると、阿弥陀信仰は蓮に事寄せて次のように把握されていった。泥の上に咲く蓮華は清浄無垢だが、同時にその茎の下の足元を直視すると、そこは泥沼のように暗く濁っている。この状態こそ、実は宿業の現実の様相であり、生きることの実態そのものなのである。
阿弥陀仏は蓮が無言のうちに示めしているように泥沼のような厳しい現実から蓮華のような清浄で安穏な浄土へと人々を誘うのである。三千代はその教えの満ち満ちた厨子の世界を眼前に、寂坐して朝に夕に祈りの刻(とき)を過ごすことが多くなった。この様子を垣間見るとき、藤三娘は阿弥陀の世界には清濁併せ呑む女性の優しさと強靭さそのものがあることを忘れてはならないと思うのであった。彼女の信仰は微妙に変りつつあった。
そもそも仏教以前の古い日本では現実の世界のほかに、もう一つの世界があると信じ、生も死もそこから訪れてくるものと考えられていた。実は仏教はこの日本古来の信仰心と融合したものであった。常世の国という他界思想はやがてそのまま阿弥陀仏に導き上げてもらえる西方浄土のエネルギーに二重写しになってゆく。実は母・三千代の晩年の阿弥陀信仰はそれであったことを藤三娘は今さらのように納得するのであった。そして自分自身の意識のなかにも,時に阿弥陀如来像が立ち現れてくるのに驚くことがあった。
だが一方では、彼女はあの阿修羅像こそ私自身であったということの確信を益々深め、<行かねばならぬ>という熱い情念が今更のように阿修羅像に重なり合ってゆくのを自覚するのであった。この一点が母・三千代と本質的に違うところだ。彼女は阿修羅の容姿(すがた)を心に抱きながら天平宝字4年(760年)6月7日、60年の生涯を閉じた。
庭には梅雨入りの季節を告げる紫陽花(あじさい)の花が雨にけぶっていた。
◇
阿修羅像は藤三娘の心映えを一身に受けて、藤三娘にとってかわって千年の歳月を送り、いま私たちの前に立ち現れているのである。その阿修羅像を背景に、現代社会へのワンステップを踏み出したのは、江戸時代の傑出した僧・良寛であった。
不可思議の 弥陀の誓いのなかりせば
何をこの世の思い出にせむ
曹洞宗の僧であり、「法華経」などに傾倒していた良寛和尚は晩年「阿弥陀仏の本願」をこうまで詠いあげたのである。
新春からの本稿が「阿修羅幻想」から「良寛幻想」へバトンタッチされるにふさわしい歌でもあった。
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